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南島中部圏へのヒトの拡散と適応過程
札幌大学 高宮広土
登録者:yoshizawa | 2010/09/13
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南島中部圏へのヒトの拡散と適応過程 - 第四回研究会 - 高宮 広土
沖縄諸島へのヒトの動きはどのようなものがあったのであろうか。まず、世界的にみて大変まれと思われるデータが、更新世末にHomo Sapiensが存在したというデータである。世界的にみて、Homo Sapiensはほんの一握りの島にしか更新世に植民していない。
沖縄からは少なくとも7カ所の遺跡から更新世末の化石人骨が報告されている。最近では、石垣島の竿根田原(サオネタバル)遺跡から出土した化石人骨を直接C-14により年代を測定した結果、20000〜15000年前という驚くべき年代を得た。
これらの旧石器時代人の中で最もよく知られている化石人骨が港川フィッシャー遺跡より出土した港川人である。ご覧の通り保存状態が良好で、日本人の起源論には不可欠な化石人骨となっている。最近の海部らによる詳細な分析により、彼らはより南方から琉球列島にたどり着いたようである。
「南方から琉球列島(そして日本本土へ)」という動きの中で忘れてならない仮説が柳田邦男の「海上の道」説であろう。彼は、縄文時代の終わりから弥生時代の始まりにかけて、稲作は南方から琉球列島を経て日本本土にもたらされたと考えた。大変影響力のある仮説である。
しかし、先史時代の遺跡からはタブノキや堅果類などの野生植物のみでイネやその他の栽培植物は見つかっていない。最近このようなデータが着実に蓄積しつつあるが、これらのデータに「海上の道」仮説を支持するデータは存在しない。
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