研究会資料
第三回研究会 - 須田 一弘

オーストロネシアンに取り残された人々を開きます。
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オーストロネシアンに取り残された人々

パプアニューギニア・内陸部と沿岸部の人々の生活

人類の移動誌研究会
11月15日
須田一弘(北海学園大学・人文学部)
登録者:yoshizawa | 2010/09/12

オーストロネシアンに取り残された人々… - 第三回研究会 - 須田 一弘

1s オーストロネシアンはニューギニア島沿岸部を席巻した後、南太平洋へと拡散していったことが知られている。では、彼らとニューギニア島先住のノンオーストロネシアンとの接触はどのようなものだったのかを少しばかり大胆に推測してみたい。その手がかりとして、パプアニューギニアの2民族集団(山麓部と沿岸部)の現在の生活を参考にしたい。ただし、両民族集団ともオーストロネシアンが通ったとされるニューギニア島北岸部ではなく、南部に居住しており、かつて実際に接触があったと考えることは難しい。あくまでも、思考実験にすぎないことをあらかじめお断りしておく。

2s オーストロネシアンとノンオーストロネシアンの区分は主に言語によるものだが、遺伝特性等も異なっている。二つの集団は比較的独立して生活してきた(大塚他、1993)が、メラネシア島嶼部では混血も行われていたと考えられている(大塚2002)。

参考文献 大塚柳太郎・片山一道・印東道子編(1993) 『オセアニア1 島嶼に生きる』 東京大学出版会       大塚柳太郎(2002)「ニューギニアという地域、そして人びと」 『講座生態人類学5 ニューギニア』 京都大学学術出版会 3-22p

3s 現在のパプアニューギニアの生業パタンは図(大塚前掲論文より)のようにタロイモやヤムイモ、バナナを主たる作物とする焼畑農耕やサツマイモの常畑農耕、サゴヤシデンプン採集が主なものである。ニューギニア高地では約9,000年前にフェイバナナ、パンダナス、サトウキビの農耕が開始されたと考えられているが、その後、沿岸部でオーストロネシアンとの接触が行われた後の約2,000年前には、主作物はタロイモへと変化し、さらに、西欧との接触後の約250年前には主作物はサツマイモへと変化した。このように、直接の接触がどのようなもので、また、どこで行われたかにかかわらず、他集団との接触はニューギニア島全体に大きな影響を及ぼした。

4s 接触の事例を考える手がかりとする山麓部のクボは、北・東の山岳地帯、西の大河、南の湿地帯に囲まれているため、かつては外部との接触はほとんどなかったが、1935年に白人行政官J.Hidesの探検により外部に知られることとなった。それ以前は民族集団内及び集団間で襲撃や戦闘が横行し、数家族からなるロングハウスでの半遊動的生活を送っていた。戦闘時には、戦果として子供を持ち帰り、身内として育てた。各ロンブハウスは婚姻や成年儀礼、戦闘同盟等で紐帯を築いていた。その後、1961年には植民地政府によりパトロールポストが設立され、集団間の戦闘状態の停止と定住化政策が進められた。1975年のパプアニューギニア独立後には、学校・保健所・マーケットが設立された。

参考文献 須田一弘(2002)「山麓部ー平準化をもたらすクボの邪術と交換」『講座生態人類学5 ニューギニア』 京都大学学術出版会 87-126p

5s キワイは人口約2万人、フライ川河口及び西側の沿岸部に居住している。海の民と自称し、ジュゴンやウミガメを対象とする勇壮なモリ猟がアイデンティティーの核となっている。ニューギニア南岸部では比較的早くからキリスト教など欧米文化と接触(19c)している。また、トレス海峡諸島への出稼ぎ等でオーストラリアと頻繁な接触を持っている。クボとキワイは直接オーストロネシアンと接触したことはないと思われるが、ニューギニア人に共通する特徴から、接触について考えてみる。

参考文献 須田一弘(1995)「ナマコ漁とキワイ社会のゆらぎ」秋道智彌編著『イルカとナマコと海人たち』日本放送出版協会 141-163p

6s オーストロネシアンによるサフルへの移動を、スンダへのモンゴロイドの移動による避難と考えるならば、遠く逃げられる所まで逃げたいと思ったのかもしれない。また、更新世の沿岸部の資源は、現在と異なりそれほど充分ではなかった可能性もある。そもそも、キワイの狩猟対象であるノブタ、シカは完新世に、人間が持ち込んだ(モンゴロイド、白人)ものである。技術が貧困な時代には海岸部での漁撈の生産性は低かったと思われる。また、キワイの主たる漁撈域はサンゴ礁であり、更新世期にどれだけのサンゴ礁があったのか、サンゴ礁まで行けたのかは疑問でもある。

7s 両者の獲物の生態を考えれば、内陸部の狩猟採集民の方が頻繁に移動を繰り返していた可能性はあるが、その範囲は山岳や湿地等の条件により、比較的限定的なものであったろう。漁撈民の移動は頻繁に行われなかったとしても、海岸伝いに比較的遠方まで達した可能性はあろう。さらに、植物性食料の存在も無視できないし、サゴヤシがいつから利用されていたのかも重要な問題である。

8s 一方で、集団内部の人間にはきわめて寛容で、法を超えてかばいあうことが多い。その際に集団の境界を決めるのは言語(ワントーク)であり、血縁ではない。また、人間の本質(アイデンティティ)を決めるのは食べ物であり、人間性や性格は食べ物で変化すると考えられることが多い。クボでは、同じ食べ物を食べ、同じ言語を話すものは出自に関わらず仲間となると考えられている。クボで見られたキッドナップの犠牲者は自分の身内として育てられ、他の成員と同等の権利が認められる。オーストロネシアンとの婚姻は必ずしも平和的なものではなかったかもしれないが、その後は集団に吸収された可能性がある。

9s 現在、ニューギニア島にオーストロネシアンがあまりいないのは、ニューギニア人に追い立てられたから、という可能性もあるのではないか。優れた海洋技術を持ったオーストロネシアンが、ニューギニアの先住集団よりもすべての面で優っていた可能性は高いとは思われるが、そうではなかった可能性もあるのかもしれない。


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